人を守り、会社を守れ!
~誰一人傷付けない、パワハラの行為者も被害者も絶対に作らない! 怒りから生まれたパワハラ予防専門社労士~

湯澤 悟(ゆざわさとる)さん

東京都在住。民間企業3社にて約9年間の人事部勤務の後、2002年8月1日に湯澤社会保険労務士事務所開業。17,000件超の人と組織のコミュニケーションエラーを起点とする各種の高難度労務問題を「腑に落ちるアドバイス」で解決に導く。2013年以降、大手上場企業等を中心に、コンプライアンス、パワハラ対策研修を実施。登壇回数は500回超、総受講者数は27,000人(経営層、管理職層が中心)を超える。有限会社グローイングと「パワハラ振り返りシート(管理職教育用パワハラ予防Web適性検査)」を共同開発。趣味は息子と遊ぶこと。


「人に優しくない会社」への疑問が、人事のキャリアへの道しるべ

最初は税理士になりたかったんだ」と仰る、現在は社会保険労務士の湯澤さん。畑違いの士業を目指すことになるまでのキャリアについて教えて頂きました。

親戚に税理士がいまして、子供心に憧れ、高校の商業科で簿記などの資格を取りました。いずれ税理士になることを踏まえると経理を経験したいなと、その路線で就職活動をし、R証券会社に入社することになりました。高卒で入社当時18歳、まだ外務員資格取得の年齢下限に満たず内勤は確定しています。同期を見ると簿記の資格を持っている人はいなかったと思うので、まあ経理だろうなと思っていましたが、まさかの人事部への配属でした。

簿記を持っているのに人事部に配属された理由はすぐに分かりました。当時、給与計算を担当されているAさん、御年68歳の方だったのですが、その方の後任が誰もいなかったんです。AさんはR証券会社の親会社にあたる銀行から天下りのような形で再就職した方で、仕事にもご自身にも誇りをお持ちでした。大卒だと喧嘩するかもしれないけど、高卒で簿記も持っている私なら、素直に何とかやってくれるんじゃないか、という思惑だったんですね。Aさんはとても厳しい方で、挨拶の仕方が悪いと一日口をきいてくれなかったり……。彼の上司にあたる人事部長よりも年長なので、今で言うパワハラめいたことも面と向かって注意できず、Aさんが離席した時に周囲のメンバーから「頑張れよ……」とこっそりフォローしていただいたりしました。

ほどなくしてバブルが崩壊して、社内で大規模なリストラが断行されることになりました。Aさんも高齢なので対象になってしまい、退職勧奨を受けて、とてもお怒りでした。人事部長からはAさんの業務を引き継げと言われましたが、とてもそんなことを言い出せる雰囲気ではありません。ただ、Aさんも暴れたところで状況は覆らないと分かったんでしょうね、ある時期から業務を教えてくれるようになり、3か月間必死に覚えました。この時になってようやく会話らしい会話をした気がします。Aさんには結局最後まで一度も褒めてもらえませんでした。

退職当日、Aさんは出社して1時間ほど荷物の整理などされた後、これで帰るから、と急に立ち上がりました。私と別部署の部長が慌てて追いかけると、エレベーターが来るまでの間に、私に「君なら出来るから、信じてやりなさい」と仰いました。一度も褒めてくれなかったAさんが、最後の最後になって認めてくれたんだなと、今でも思い出すと涙ぐんでしまいます。Aさんのためにしっかり仕事をしようと決意し、社労士という資格に興味を持ち始めました。同時に、退職勧奨されて怒り狂うAさんの様子を見て、人に優しくない会社の在り方は正しいのだろうか、という疑問も芽生えました。

Aさん退職後も人事でしたが、入社して3年ほど経った頃、当初の念願叶って経理部への異動が叶いました。当時は経理は10年は腰を落ち着けてじっくり取り組む、なんて言われていたので、いよいよだ、と意気込んでいたのですが、1年ほどで営業に異動になってしまいました。会社の業績が悪化して、男性社員はどんどん営業に回す、という方針になったんです。中央商科短期大学証券学科(夜間)を卒業し、外務員資格も取得できたことから発生した異動だったのかもしれません。ですが営業に配属されてから3日で会社を辞める決意をしました。もともと営業をやるつもりは全くなく、配属されて実際に取り組んでみても、やはり肌に合わないな、と感じたからです。

当時22歳の1995年、何も決めずに退職し、すぐに就職活動を始めました。バブル崩壊して数年、就職氷河期と言われた時期です。自分は実務経験があるから大丈夫だろうと楽観的な気持ちでいましたが、人材紹介会社の担当者から「湯澤くんは四大卒じゃないから、紹介できるところがないよ」とはっきり言われてしまい、衝撃でした。実際厳しく、人事か経理志望で求人を探して、手当たり次第に書類を送っては選外となることの繰り返しでした。

E株式会社は、たまたま私が希望する人事職の求人があったので応募しましたが、履歴書には人事か経理と書いていました。すると人事マネージャーの方に面接で「どちらかだなんて甘い!」と怒られてしまいます。「どちらにするんだ!」と凄まれて、それなら求人が出ている人事で、と咄嗟に答えつつ、こりゃダメだと直感しました。ですがその日のうちに二次面接合格の連絡があり、本当に驚きましたね。そこから最終面接をして、1996年の1月にE株式会社人事部に入社しました。当時の最年少の方が大卒の24歳の方だったので、それより年下、かつ給与計算の実務経験がある人材だから、ということだったようでした。

E社の仕事内容は、給与計算をメインに、新しい給与システムの導入・立ち上げなどに関わりました。キャリアパスに沿って仕事の範囲が少しずつ広がっていき、いろいろな立場の人の相談を受けることが増えていきました。Eの自社工場の労務と連携したり、パートさんの面接もしましたね。

私の前任の方は社内で唯一社労士の資格をお持ちで、引継中もいろいろな部署から労務関連の問い合わせ電話がかかってきていました。ところが私が後任になると、こうした質問に答えることが出来ません。問い合わせた側からは、人事部のサービスが落ちた、という印象になりますよね。また人事部を見回すと、制度設計や採用など、みなそれぞれ専門性が高い分野をしっかりとお持ちでした。この中で自分の立ち位置を確保するには、社労士を取得して自分の専門性を確立するしかない、と取得への決意が固まりました。E社在職は4年10か月ほどで、その間社労士を受験し、一度失敗しています。資格を取ったら社労士として独立するのもいいな、と漠然と考え始めてもいました。

一方、社内の雰囲気は入社した頃と比べて変わりつつありました。採用面接で発破をかけてくださったマネージャーは退職され、後任の人事部長は数字ばかり見て人そのものを見ない方でした。そのため部の雰囲気がだんだん悪くなっていき、いやだなあと感じていました。特に当時、E社創業後初の定年退職される世代の方がいて、その問い合わせが増えていたんです。現場から「湯澤くん、ちょっと工場まで来て説明してくれないか」と頼まれ、部長に相談しても「そんなの行かなくていい」なんて回答されるだけ。部長の非情な態度が頭にきてしまい、「困っている人がいるのに何で人事部がやらないんですか」と啖呵を切り、勝手に工場に行くようになりました。

そんな時に別の人事のマネージャーから会議室に呼び出され、「もう、湯澤くんにやってもらう仕事がなくなっちゃったんだよ……」と言われ、なんだリストラか、じゃあ辞めてやるよ、と転職活動を始めました。リストラは私の誤解で、給与計算や労務はもう十分やったから、新しい分野で経験を積んでみたらどうだ、とのことだったらしいんですけど。そのマネージャーには後から誤解だよと言われても、あの言い回しではそうは受け取れませんよ、と返しました。またもや次を決めずに退職日を決めて、有給消化しつつ転職活動をしました。退職が2000年10月、27歳の時のことです。 この時の就職活動もまた苦労しました。私の年齢で3社目への転職は、一か所に腰を据えないジョブホッパーと揶揄されてしまいます。しかも社労士を目指しているとなると、次の会社も独立へのステップにして、開業してすぐ辞めてしまうんだろう、と言われてしまうんです。それでもどこか、と必死に50社以上応募し、飲食系の株式会社G社の人事職で採用していただきました。

次のページ

 

1

2 3 4