やりだすと一生懸命!常にできることを探していく
若い時というのは様々な可能性があり、その広い選択肢ゆえに迷うものかもしれませんが、小川さんはとにかく一直線!のように文責者には映ってなりません。強く揺るがないように見える志はどうやって生まれたのでしょうか。
結構やりだすととことん一生懸命やるタイプ…というところはあると思います。
中学校高校は部活で吹奏楽をやっていました。もうずっと部活で外に出ていて、高校は特に強豪校だったので、ぎりぎりまで進路のことも考えていませんでした。いよいよになって、じゃあ何をしようかな、と思ったときに、自分がおじいちゃん、おばあちゃんが大好きだ、ということを思い出して福祉もいいかな、と思ったのです。
もともと祖父母とずっと一緒暮らしていたこともあって、おばあちゃんっ子に育ったのだと思います。両親も働いていたので過ごす時間も多かったこともありますね。
中学高校のいわゆる思春期のころだと思うのですが、ニュースなどでおばあちゃんが自分の娘に殺されてしまったり、施設で適切なケアを受けられなかったりということを聞いてとてもショックを受けたんです。
自分の大好きなおばあちゃんたちが、長い間ちゃんと生きてきたのに、最後に肉親から疎まれたり、世間的にすごく地位が低くなったりとか。これは何なのだろう。今生きている意味って何だろう、って自分で考えてしまったことがあったんです。最後になって自分で選択する権利もなく嫌な介護を受けるのなんてすごく嫌だ、と思って。そこが福祉の世界を見たいな、と思うようになったきっかけのように思います。
そんな時に母親からたまたま音楽療法のことを聞いて、音楽も続けられるし音楽と福祉をやってみようと思って音楽大学の音楽療法コースに進路を決めました。
大学時代は高齢者施設でアルバイトをしていたのですが、そこで実は少し違和感があったんです。施設ってなんだろう…って。
どうしたものかなと思っていた時に、入所されている方のお孫さんがお母さんに連れられて面会にきたんです。生後半年くらいかな、という感じの赤ちゃんでした。
その入所者さんは認知症の症状でほとんど発話もなく表情も動かなかったのですが、その赤ちゃんと目があったときにすごく笑顔になって。自分から口を動かされて。反対に赤ちゃんを見たら、明らかにおばあちゃんの方を見て、キャッキャッと声を出して笑顔になって。なるほどこれだ!とそれを見た時に思いました。この笑顔を引き出すには職員だけじゃダメだし、高齢者だけという空間もダメ。私もそうですけれど、相手がいるから笑顔になるし、自分が何かしてあげたいと思える空間だったら、おじいちゃんおばあちゃんもイキイキできるんじゃないかな?と思ったのです。
そして保育士の資格も取りました。あくまでも最初はおじいちゃんおばあちゃんがよりよく最期を迎えるためにプラスの要素と考えての保育士の取得でした。
その出来事があって子どもの分野も関わりたいと思うようになりました。専攻していた音楽でも世代間をつなぐことができる。音楽を通して世代間交流できないか、という風にその頃から考えるようになって卒業論文のテーマにしました。それが多世代交流を志すまでの経緯です。