自らの選択で天命を全うせよ
重荷を負うて遠き道を行くが如し人生を、如何に生きるか

山岡 誠一(やまおかせいいち)さん

千葉県在住。コンピューターやソフトウェア開発の黎明期にシステムエンジニアとしてHシステムエンジニアリングに就職、プログラマーとして多数のシステム開発に携わる。その後E電機、N自動車ディーラー企業を経てTスーパーの経営会社に入社。システム開発だけではなく、店舗運営、総務、人事など、幅広い業務を担当し知見を得る。その後Excel研修会社の株式会社すごい改善に入社、役員となる。現在は役員職を辞任し顧問。実務経験に裏打ちされたExcelノウハウをTwitterとHPにて公開中。


システムエンジニアなら食うに困ることはないけれど……

共通一次試験導入の年に受験をすることとなった山岡さん。受験勉強の方向性が大きく変わるところから、キャリアの選択が始まっていました。

大学は情報工学科に行きましたが、実をいうと本当は法律がやりたかったんです。六法全書や日本国憲法を何度も読みました。今でも法律は好きですね。プログラミングは法律と比べると面白くないんですよ。決められたルールにのっとって、決められた言語で命令して、その通りに動くだけなので、私にとっては当たり前のこと、という感覚です。ただ、受験を考える時に得意だった科目は理系が多かったので、理系の大学を選ぶことになりました。私が受験する年度から共通一次が始まったので、5教科7科目勉強しなければいけなくなったのが大変でした。浪人するつもりはなかったので、「たとえ風邪を引いたりして本調子でなかったとしても絶対に合格できる」を基準に選んだ結果、信州大学情報工学科を受験、無事合格して進学し、情報工学の勉強をすることになりました。

当時、まだWindows95が発売されるよりも前のことですから、ソフトウェア開発の機運が高まっていても、その知識と技術を持っている人材が少なかったんですね。だから私の学歴を見て、ソフトウェア開発系の企業が断ることはまずあり得ませんでした。超売り手市場なので、いくつか企業を絞り込んで、Hシステムエンジニアリングに入社しました。

Hシステムエンジニアリングは、今で言うSIベンダーで、親会社である証券会社の関係性からの仕事を多く抱える企業でした。当時のソフトウェア開発は今とは全然違う環境で、まずコンピューターがインターネットでつながっていないので、プログラムのコードを変更するためには、そのコンピューターが設置されている現場まで実際に赴かないといけませんでした。当初はコンピューターも今のような大きなディスプレイではなく、電卓のような細長い窓に1行表示されるだけです。しかも肝心のプログラムは、パンチカードという紙にエンジニアが手書きで指示を書いていました。パンチカードにはエンジニアの指示通りにパンチャーさんによって穴があけられ、何百枚も順番に並べます。完成した大量のパンチカードを現地に持って行って、銀行のお札を数えるような機械に読み込ませると、ようやく稼働する、といった具合でした。当時のエンジニアは、誰もが一度はパンチカードをぶちまけてしまう、という失態を経験しているはずです。そうなると周りは助けてあげたいけれど、手当たり次第に拾ってしまうと、かえってどれが何のカードなのか分からなくなるので、何もできないんですね。みんなが心配する中、一人カードを拾い集めていると、何とも虚しい気持ちになったものです。

とにかくソフトウェア開発のエンジニアは人手不足だったので、徹夜や泊まり込みが当たり前で、残業代で給料が基本給の倍になるほどでした。勤務地としては東京が1年、土浦の某大手企業への出向扱いが3年です。東京勤務では神田の近くに住んでいたので、べったら市などのお祭り時期になるとビルの前でゴザを敷いて宴会をしている人がいたりと、賑やかな雰囲気が楽しくて好きでした。退社の理由は私が実家に戻ることになったことです。私は長男なので、いつか家に戻るのだろう、とどことなく感じていましたが、退職を考え始めた頃に父親が倒れ、そのことも後押しになりました。

家は千葉県勝浦なのですが、その近辺でもシステムエンジニアの職を探してみたものの、全く見つかりませんでした。家に帰ることを念頭に置いていたので、今で言うリモートワークのような働き方が出来たらと思い、面接で提案してみたのですが、何を言っているんだと一蹴されて終わりましたね。当時でもパソコン通信などは普及しつつありましたので、FAXと電話回線があれば技術的にはリモートワークは可能でした。が、まだ電話料金などの面でのインフラが整っておらず実現しませんでした。今から当時を振り返ると、発想が20年は早かったな、と思います。

懸命に就職活動を続けて見つけたのは、E電機社のコンピューター部門でのシステムエンジニア職でした。当時同社は市役所の基幹システム作りなどを請け負っていて、その開発要員としての採用でした。こちらの市での開発が終わると、あちらの市、そちらの市、と現場が移っていくのですが、同じ行政なのに市によってシステムの構成が変わるのが不思議で、勿体ないことをしているなあと思っていました。E電機社が開発を引き上げるタイミングで、給与面で面接時点での話と異なっていたこともあり、転職を決意しました。決意したものの、当時の自分の実家の周りでシステムエンジニアの職は全くありませんでした。なのでエンジニアにこだわらず、給与面などの条件が合致すればあらゆる職に応募しました。葬儀屋に応募しようとしましたが、周囲に反対されてやめたりもしましたね。最終的に、N自動車のディーラー企業の事務職で採用されました。 Nディーラーでは、営業が契約した車の事務的な手続きのために陸運局に書類を出しに行ったりします。職場にネットワークにつながっていないPCはありましたが、システム関連の仕事は全くありませんでしたね。ですが逆に、システムではない部分の仕事が面白かった。現在のような配送追尾システムがないから、希望の車が今どこまで配送されているのか電話で経路の順番に聞いて回ったり、当時は車のナンバーは選べないのに営業が4(死)や9(苦)を避けたナンバーを取りますと口約束してしまうものだから、陸運局で申請書の書類を持って、狙ったナンバーがとれるように順番待ちをしたり……。そんなアナログなところが新鮮でした。私自身は車に対して思い入れがなくて、乗れればそれで充分、というスタンスだったので、車好きの人のようには働けないな、とも感じました。仕事は効率よくこなしていましたが、私と同レベルの人はたくさんいて、私がやらなければいけないわけではない。この仕事では一流にはなれない、それなら私がここにいる存在価値がない、と考え、またも転職することにしました。

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