グローバルビジネス時代の維新志士
~2つのサイクルのバランスで、最大級の苦労を成功に換える~
金田 博之(かねだひろゆき)さん
INSEAD RMDP(Regional Management Development Program)修了。1998 年、グローバルに展開する外資系大手ソフトウェア企業 SAPに新卒で入社。以来、入社1年目で社長賞受賞(その後、3年連続受賞)、29歳で副社長補佐、30歳で部長に着任、35歳で本部長に昇格。マーケティング、営業、オペレーションまで幅広いマネジメントを経験。SAP全社 10万名のなかのハイパフォーマンス(上位2%)を挙げた SAPグローバルトップタレントに7年連続で選抜される。日本の大手製造・流通企業のミスミグループ本社でジェネラルマネージャー(GM)としてグローバル新規事業を推進。5年後、世界最先端のAI/チャット・メッセージング・プラットフォームを提供する外資系IT企業「ライブパーソン株式会社(LivePerson、NASDAQ上場)」の代表取締役に就任。
その後、2020年12月よりクラウド型ネットワークセキュリティ分野で 10年連続グローバルリーダーに選出されている「ゼットスケーラー株式会社(Zscaler、NASDAQ 上場)」にて日本を含むアジア全体を統括する代表取締役に就任。 プライベートでは勉強会を定期的に開催し、参加者は累計 1,000 名を超える。これまで 10冊の書籍を出版。プレジデント、ダイヤモンド、東洋経済、日経ビジネスアソシエなど各種メディア掲載実績多数。オフィシャルメルマガは2017年〜2020年まぐまぐ大賞キャリアアップの部連続受賞。
英語が出来なくても、外資系企業入社1年目で社長賞を受賞できた理由
子ども時代の体験から、「自分の存在価値」を探求するようになったと語ってくれた金田さん。哲学的な問いかけは、小さな気づきをきっかけに大きな飛躍のはじまりをもたらすこととなりました。
僕は自分のキャリアを3つのフェーズに分けて受け止めています。まず1つ目が新卒で入社したSAP、15年在籍したIT系外資系企業の時代です。ここでマーケティングから営業に至るマネジメントを経験しました。2つ目がミスミグループ、日本の製造業、こちらは5年でGMとしてグローバルDX新規事業を推進しました。最後、LivePersonからZscaler、これは僕としては大きく同じフェーズで認識していて、日本に進出を目指すIT系外資系企業の経営者、という位置づけです。今ではアジア全体の経営を推進しています。ミスミ時代に顧客の最終意思決定者側の経験をしている点が大きなバネとなりました。
SAPは15年在籍し、前半7年がプレイヤー時代、後半8年がマネジメント時代と分けて捉えています。全体を通して対顧客の売上につながる活動のマネジメントを行ってきたところが一貫しています。
実は僕、当時は全然英語が話せないのにIT系外資系企業のSAPを選んで就職したんです。理由を紐解くと子ども時代にまで遡ります。子どもが一クラス26人しかいない小さな村で育ったのですが、その中でいじめに遭ってしまい、メンバーが入れ替わらないので中学卒業までずっと続きました。高校に入って、進学先が離れたのでいじめはなくなりましたが、今度はクラスメイトとの距離感が掴めなかった。友達をあだ名で呼べないんですよ、何々くん、と「くん」付けでないと呼べない。いじめがトラウマになって、あまり踏み込みすぎて嫌われてしまうのが怖かったんです。なので目立たない生徒だったし、友達の輪にも入れなかった。そんな自分を変えたいと、大学の入学式では、最初に声をかける人をあだ名で呼び捨てにしよう、と決意し、見事ミッションを成功させました。他の人にはなんでもないことですが、僕にとっては大きな変化となりました。すごくドキドキしたんです。
こうした経験から、自分の存在感を示すことをすごく大切にするようになりましたし、相手の気持ちの変化にもとても敏感になりました。過剰なくらい相手の気持ちを推し量ってしまい、親友に繊細だなと言われたりしますね。これは悪いことばかりではありません。相手の気持ちの変化に敏感になった結果、部下のマネジメントや顧客との商談の場面で生かすことが出来ています。それから家庭が裕福でなかったので、大学の学費はアルバイトを6つ掛け持ちして自分で賄うなどの苦労もありました。親からの仕送りで生活している友人が羨ましかった反面、自己判断で生きていくハングリーさが大きく養われました。
頑張って自分の存在感を示さなければいけないと思っていたことと、金銭的に余裕がなかったことが就職の決定打でした。外資は実力主義。日本企業のようなキャリアのレールはなく、バックグラウンドに関係なく自己判断と実力次第でスキル、名声、お金などを勝ち取ることができるイメージでした。
ところが、入社してみると現実は違いました。SAP入社当初、僕は英語ができないし、IT関連の知識技術も全くありませんでした。配属されたのはマーケティング部で、SAP主催のイベントやセミナーの運営事務局での申込処理を担当することになりました。当時はまだFAXのやりとりがメインの時代でしたので、僕の業務はFAXでのDM送付、申込書FAXのExcel入力、過去の複数のセミナー受講者リストをつなげて新しいイベントのDMFAX送付、イベント終了後のアンケートをExcelに入力、こんな具合です。セミナー受講者リストの重複チェックも目検で確認するような、アナログで手間のかかる状況でした。この繰り返しだけの日々が半年ほど続きました。英語ができたり、ITの知識がある同期生がどんどんと目立っていく中、僕は毎朝FAX当番というとてもつまらない仕事を半年以上も続けるだけで、焦っていました。
半年ほどして、営業の先輩が「K社のアポイントがなかなか取れなくて……」とこぼしていたのをたまたま耳にしました。そうしたら数日後、K社の重役の方からたまたまセミナー申込FAXが来ていたのを見つけたんです。これを見せたら先輩は喜ぶだろうなと早速伝えたところ、先輩はすぐにその方に連絡をしてうまくつながりを作ることが出来たそうで、とても喜んでくれました。僕の仕事は単なるFAX当番じゃない、社内の誰よりも先に顧客のコンタクト情報を得られるポジションにいるんだ、と、今までとは真逆の発想に気が付いた瞬間でした。そこで、申込をとりまとめたら、上司に報告するよりも先に関連部署に投げてみることにしました。各部署で喜ばれて活用されてくると、今度は申込リストを部署や売上別に並べ替えたり、逆に営業サイドからターゲットリストを事前にもらって申込リストとマッチングさせたり、いろいろなことを工夫し、気づくと顧客データベースを作り上げていました。
それまでは過去のイベント来場者リストを目検で確認してつなげるのに5日、申込書の入力に2日、アンケートの集計に1週間とそれぞれかかっていた業務が、僕のデータベースを使うと各作業たった5分で済むようになり、数億単位のマーケティング予算の相当なコストカットにつながったことが評価され、新卒入社一年目で社長賞をいただくことができました。社長賞を受賞したのは100名いた同期の新卒社員の中で、僕一人。彼らは英語が得意だったりIT知識に長けており、いい環境で仕事をしていたので、かえって僕がやっていたような仕事のムダには気が付かなかったんだと思います。一方僕はどんな仕事でも付加価値を見出してやろう、と一生懸命考えていました。学生時代と同じですね。そうしたハングリーさが、今でも問題解決・業務改善のタネを見つける敏感さにもつながっていると思います。
入社して7年目、30歳の時に部長職に就くことになりました。当時の社内では部長といえば40代の方が多く、僕の年齢での就任は異例の抜擢です。外から見れば「最年少部長に就任」と華やかで前途洋々に聞こえるのですが、僕の心境は真逆でした。当然実務では年齢は関係なく他の部長と比較されます。また、プレイヤー時代とは違ってチームで結果を出さなければいけません。その点他の部長と比べて、僕はまだ圧倒的にマネジメント能力がなかったのです。外資系企業ですから、業績が悪いといつでも切られるというプレッシャーを毎日感じていました。
この配属はインサイドセールスという、電話やウェブを中心に訪問以外の手段で営業活動をする部署の新規立ち上げでした。SAPの場合、新部署立ち上げの部長職には外部から経験者を雇い入れることがほとんどですが、この時は僕に試しにやってみろと社長と副社長から辞令が来たんですね。新部署には入社3年の社員が10人配属されました。彼らとしては訪問営業がやりたくてSAPに入社したのだろうに、営業部署からは離されてしまうし、新しい部署の部長は若くて頼りなさそうだし、不安を抱えての配属だったでしょう。実際そうした不安を同僚と話しているのを偶然耳にしてしまったりもしました。僕自身、人を指導する立場になるのは初めてのことでしたから、毎日胃が痛くて痛くて心も身体もボロボロでした。
けれども負けていられないぞと奮起し頑張りました。当時、SAP全体で年間500件の大型案件を100人の営業が成約していましたが、インサイドセールス立ち上げにより、その半分の250件以上の案件を10人で成約する非常に高い営業生産性を確立しました。毎年の目標も大幅に超えて達成し、部署の人数も大幅に増え、社内の満足度調査でもトップ3にランクインする優良部署になりました。僕がミッションインポシブルな成果を出したものだから、もっとできるだろう、と35歳で本部長に昇進し、別の部署の立て直しをすることになりました。
本部長としての配属先は、営業の世界から一転し、オペレーション部門の統括です。自分で立ち上げた新部署は満足度トップ3にランクインしていましたが、配属先は逆にワースト3でした。3年間で5人の本部長が変わり、38人いる社員はほとんど僕より年上、中には僕の元先輩もいました。今度は部長が部下になりますので、マネジメントの難易度が上がります。現場メンバーへのコミュニケーションも慎重に行わなければなりません。更に心理的負担がある業務内容で、就任時点でもすでに部長クラスを含めて3人がメンタルヘルス不調になっているという、なかなかに難しい状況からのスタートでした。
すでに危機的な状態のこの組織をたった3ヶ月以内に立て直して正しい軌道に乗せなければならず、課題は山積みでした。そんな中でも意識高いメンバーが数名おり、彼らを突破口に改革を進めました。
30日後、60日後、90日後の改善プランを僕は部下全員に対してコミットし、毎週開催することにした全体会議での改善状況の共有と、透明性をもってコミュニケーションすることを心掛けていった結果、業績も雰囲気もみるみる回復していきました。コミット最終日の90日目には、組織のビジョンとミッション、そして新しい組織体制を発表し、組織としてよりしっかりと機能するようになっていきました。結果として1人も辞めず、むしろ組織は拡大しました。メンタルヘルス不調だった社員は健康を取り戻し、この組織から昇進者やトップタレントが育っていき、全社経営戦略策定やオペレーションの効率化などの各種プロジェクトでチームとして様々な成果を生み出しました。この時ほど、主観や直感ではなく、事実に基づいて客観的に判断・行動することが重要だなと感じたことはありません。配属先が悲惨な状況で、確実に成果を出さなければいけない状況だったからこそ、慎重になろうと事実をしっかり踏まえることの重要性が身に染みました。
2年後、僕は更なるチャレンジと修羅場を経験するべく別の営業組織の立ち上げのため異動となったのですが、送別会のメンバーの元気な笑顔は今でも忘れられません。そこが成功すると次はここ、その次は……と、更なる大きな修羅場が待っています。異動する度に役職とマネジメントする人数がどんどん増えていきました。この間、自分自身もメンタルヘルス不調を経験しました。自分の限界を知りどん底を味わったこの悔しい経験が更に自分の成長のとても大きなバネになりました。 SAP前半、プレイヤー時代は自分に付加価値をつけることに情熱を注いでいましたが、後半、マネジメント時代は、不利な立場、深刻な問題を抱えた状況から、部下をモチベートして結果を出す、ということに全力で取り組んだ期間となりました。