雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ
~自分が最も人の役に立てる事、社会に貢献できる事は何なのか、常に考えていく~

井村 学(いむら まなぶ)さん

北海道旭川市出身。地元の食品工場に三年間勤務。その後上京してデザイン学校に入学、卒業後は広告会社にデザイナーとして入社。激務をこなし実力をつけていくうちに、広告やプロモーションだけでなく、ゼロからサービスを生み出すところから関わっていきたいという思いが強くなり転職を決意。メーカーならばそれが実行できるだろうとシューズメーカーに転職。広告担当業務をする傍ら、積極的に自主提案をしていた企画が役員の目に留まり、新規プロジェクトの立ち上げメンバーに抜擢、ヒット商品を生み出した。ヘルスケア系WEBメディア会社に転職後は、今までと全く違う分野に取り組む。その後、友人が経営するマーケティング会社を一緒に経営しないかと誘いを受け、株式会社PMAの取締役に就任した。経験分野であるマーケティングの企画・営業の他、人事や管理業務も担い、事業拡大期の同社を内外から支えている。
中学生のお子様がお一人。プライベートではお子様と一緒にジムに通ったり、趣味のバイクを楽しんだりしている。また、合気道を通して自身のあり方を問い、心を鍛えているそう。

 


想いを叶えたキャリアの始まり

子供の頃は絵が好きで、絵をたくさん描いていたという井村さん。いつかデザインを志したいと思いつつ、今の自分が置かれた環境で出来ることを探るところからキャリアがスタートしました。

キャリアのスタートは地元の食品工場から始まりました。
もともと絵が好きで、子供の頃はそれこそ一日中絵を描いていましたね。小学校の時には動物園写生コンクールで市長賞をいただいたこともありました。ほかにも、図工の授業でパズルを用いて作ったロボットのような作品を、当時の同級生達がとても褒めてくれて、嬉しかったのを今でも覚えています。

そんな事もあり、いつか自分の絵や作品でたくさんの人を喜ばせたい、そのために広告やデザインを学びたいと思っていたんですね。
でも家庭環境的に色々と問題もあったので、高校卒業して一旦働いて、お金を貯めようと考えました。

食品工場の環境は過酷で、午前中は室温45℃の調理場で1000食分のチャーハンを作り、午後からは-25℃の冷凍庫で次生産分の食材を取り出したりしてました。

コップを手にチャーハンを作るの機械について説明される井村さん。

また、過酷な環境で社員の出入りも激しく、そもそもパートさん中心の社員が少ない職場だったので、二十歳の時には主任に抜擢されました。

一緒に仕事しているのは下手したら母親より年上のパートのおばちゃん。そんな人たちに指示を出しながら何千食分もの調理をするという、とても貴重な経験をしましたし、可愛がっていただきました。ここで三年働いてお金を貯めて、上京してデザイン系の専門学校に入りました。

東京から地元の大学に来ていた仲の良い先輩が二人いたのですが、卒業後は東京に帰り、デザイン関係の学校に入ったことにも背中を押された気がします。

デザイン学校卒業後、念願の広告会社にデザイナーとして入社しました。ここからの生活はまさに毎日が過酷な修行の日々でした(笑)。
徹夜、泊まり込みは当たり前です。デザインをやりたければまずは周りの雑務をきっちりこなせ、と言われるんですね。ここでも三年間働きましたが、その間の平均睡眠時間は三時間くらい。残業代もつかないし賞与もなかったですね。当時の給料を実働時間で割ると、恐らく時給250円くらいでした(笑)。

働き方はキツかったけれど、一方でものすごく学びの多い環境ではありました。まさに寝る間も惜しんで仕事をしたので、一番成長できた時期だったかもしれません。

三年後に転職するのですが、環境が嫌だったというよりも、仕事内容にジレンマを感じ始めたからなんです。
広告って、よく言うマーケティング4P(Product、Price、Place、Promotion)のうち、最後のプロモーションの領域にしか関与できていない。他のプロセス、つまり製品を作って、価格を決め、販路を決め──そうしたことにも関わってみたい。でも今の仕事はプロモーションしか出来ない。自分だったらもっと製品段階から工夫できるのに……。そんな事を考えてモヤモヤしていました。今思うと生意気ですよね(笑)。

でも徹夜や泊まり込みが当たり前の当時の環境では就職活動をする時間がなかったので、まずは当時の会社を退職して一旦派遣社員として外資系広告会社に転職し、そこで働きながら就職活動を並行しました。そして国内大手のシューズメーカーに就職、26歳のことでした。

 

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