事件はまたもクリスマスに起こる やるべき事に気づくまで

少し遡り、阪井さんの副業から独立後までのお話も伺いました。着々とした取り組みで副業から独立した阪井さんですが、またもクリスマスをきっかけに怒涛の展開が始まり、それはやがてご自身を見つめなおすきっかけとなります。

いつか独立したいなと考えていた背景に、僕の家庭環境があります。父は保険代理店を個人で経営していて、土日もなく日夜働きづめでした。一方、母方の叔父がM社でのネットワークビジネスの成功者で、外車を乗り回して、いつも海外旅行に行って、働いているところを見たことがないような人でした。子供の目線からはそんなことは分からないので、叔父の暮らしぶりに憧れていたんです。小学4年で学校で七夕飾りを作った時、短冊に「大人になったらM社に入りたい」と書いたくらいですから(笑)。新卒で働き始めてから、念願かなってM社に登録して活動を始めたんですが、ネットワークビジネスがこんなに評判悪いんだというのをその時に初めて知りました。M社での業績は全然ぱっとしなかったのですが、それでもヒルトンをクビになるまではずっと続けていました。

ヒルトンで世界2位の売上を出したのだから、M社も上手く出来そうなものなんですけど、僕には無理でした。製品自体は今でも使っているんですけど、人は製品そのものではなく、その人が持っているストーリーによってモノを買いますので、M社が取り扱う商品で未来を語るのは僕には無理でした。「一緒に海外に行くような生活になろうよ」なんて言っていたけど、自分がM社で稼げてないよね、説得力ないよね、というのもありました。

ヒルトンをクビになって始めた副業は、ブログを書くところからスタートしました。内容としては、インバウンドマーケティングという、自分からPUSHするのではなく相手から契約をお願いされるPULL型のマーケティングの手法の魅力を伝えるものです。それまでの僕の営業スタイルは超PUSH型で、ゴリゴリ自分から営業をかけて、その商品を欲しくもない人にガンガン提案していました。巷では「阪井に近づくと営業されるぞ、近づくな」なんて言われていたくらいですから相当ですよね(笑)。インバウンドマーケティングの魅力を知るにつれ、「僕が求めていたものはこれだったんだ!」とテンションが上がりまくりました。PULL型営業なんて今まで全くやったことがないのに、徹底的に調べて、インバウンドマーケティングの魅力をお伝えするセミナーを開催、メルマガ登録……ということを始めたんです。

2013年に初めて豊洲でセミナーを開催した時は、まだブログのアクセスは1日5PV、メルマガ読者もたった5人でした。でもまだ20代半ばだったので、「ヒルトンで2位の僕がこんなに勉強してきたことを話すんだから、たくさんの人が来てくれるでしょ」と謎の自己肯定感の高さがありまして、30人くらいの会場を押さえました。価格も最初は強気で1万円に設定したのに、準備しながら早割やメルマガ登録割があるのを知って、どんどん適用して最終的に500円になりました。最初の価格の95%引きですよ(笑)。それだけ値引きしたにもかかわらず、結果として来てくれたのはお一人だけでした。

会場費とかを考えると完全に赤字なんですけど、それでも一人来てくれたということに感動しました。3~4か月かけてセミナーの準備をして、今までお給料でしかお金をいただいたことがなかったし、ネットワークビジネスでは全然稼げていなかった。自分の経験を話すことによってお金をいただけるという体験を初めてして、すごく感動したんです。たった500円、ワンコインでしたけど、自分の経験に値段が付いたんだということが嬉しくてしょうがなかったんですね。そうした喜びをいろんな人に体験してほしいと思って、会社員の方向けに「自分の経験を元にセミナーやってみませんか」というのを推し始めました。

それからブログのアクセス数も増えて、月間15万~20万PVを記録するようになって、All AboutやGunosyのトップページに載ったこともありました。でも、これだけアクセスがあるモンスターブログでも、セミナーに来てくれる人が全然いなかったんですね。コンバージョン率(メルマガやブログの読者のうち、実際にサービスを購入する人の割合)がむちゃくちゃ悪くて。炎上マーケじゃないですけど、面白おかしく書いてバズりやすい記事を当時は書いていたんです。そういう記事は、読んでもらえたとしても書き手の阪井そのものに共感しているわけではないので、実際のアクションにはつながらないんです。そのことに気が付いたので、ブログは辞めました。僕が心を込めて言っていることを分かってくれる人にだけ共感してもらえたらいいかな、という方針に思い切って切り替えたんです。その時、就職活動で書いた自分史のことを思い出しました。ある人の経験を価値に変えてセミナーで伝えるためには、まずその人の人生すべてを見せてもらわないことには分からないな、と。そのために自分史が活用できるんじゃないかと思い立ち、就活で書いた自分史を元に、独自に「ノート3冊分の自分史®」メソッドを生み出しました。

NPOを退職して独立したのが2016年で、1年分の売上が立つ見通しが既にあったので、初年度は順調でした。その次の年2017年も「ノート3冊分の自分史®」コンサルをやっていて、安定していたんですけど……こういう言い方をすると当時のお客様に失礼になってしまうのですが、独立して2年目で飽きちゃったんです。仕事ではなく作業になってしまったというか。人は違えどやっていることは一緒で、自分の中でパターン化されてしまったんですね。ディズニーで「毎日が初演ですよ」と教えてもらったのに飽きてしまって、でも自分としては一応はちゃんとやっていたつもりで、お客様の満足度も高いと思っていました。でもクリスマスに当時の受講生の方たちと食事をしていた時に、ボイコットに遭ってしまいました。「上から目線が我慢の限界だ」と説教を食らいました。突然だったので記憶にないんです。それで次々コンサルが打ち切りになって売上が急降下してしまいました。それにしてもクリスマスに良く事件が起こります。

ボイコットの時点で自分の至らなさに気が付けば良かったんですけど、当時は気づけませんでした。売上が減って、でもうちの会社を大きくするんだ、新規事業だと息巻いて、地域活性事業に進出するんです。ノート3冊分の自分史®のノウハウを使えば、どんな業種でも埋もれている強みを見つけることができると勘違いしてしまったんですね。元々旅行会社やホテルでも働いていた経験があったので、ホテルや旅館に応用すれば、結構簡単にできるんじゃないか、と考えました。更に全国の中小旅館をオンラインでつないで、仕入れ業者の情報交換ができるようなオンラインサロンの旅館版を作ろうとしたんです。銀行4件から3,000万の融資を入れて、社員も雇って奮起したんですけど、半年で全部吹っ飛ばしてしまいました。事業計画もむちゃくちゃで事業として成り立たなくて、売上は全部で100万も行かなかったと思います。融資3,000万を溶かして、社員にも辞めてもらわなくちゃいけなくなると、今度は労使トラブルになってしまいました。裁判一歩手前まで紛糾し、弁護士に入っていただきました。会社は完全に債務超過状態、税理士には会社を潰せって言われ……2018年は衝撃的な一年でした。

怒涛の2018年を終えて、もう一度まっさらな状態になりました。ブログやメルマガ配信などを全然しておらず、登録者のリストが全くのゼロに戻ってしまったので、そこの立て直しからのスタートでした。会社潰した方がいいのかな、首吊った方がいいのかな、と思い悩みましたが、全部失ったときに自分の手元に残っていたのがやっぱり「ノート3冊分の自分史®」でした。神様という存在がいるのであれば、全部失っても「ノート3冊分の自分史®」が手元に残ったということは、今回の僕の人生では自分史をやりなさいよ、と言ってくれているのかな、と思いました。

それまではミッションを「使命」と訳して、自分が人生を賭けてやるべきもの! と暑苦しい熱量で捉えていました。だから「僕のコンサルを受ければお前も変えてやるよ」みたいな、超イケイケなスタンスだったんですね。でもこの経験を経て、ミッションを「役割」と訳すようになりました。自分という器を使って何をやったらいいか、いろいろな出来事から気づかせてもらうんです。やるべきことに気づかせてもらったら、ただそれをやるだけですよ、という淡々とした感覚になりました。仏教の親鸞聖人の言葉に「平生業成(へいぜいごうじょう)」というのがあります。僕たちは生まれながらにしてやるべきことをもって生まれてきている。でもやるべきことは最初は分からないから、まずはそれを見つける努力をしなさい。見つけることが出来たのであれば、ただそれを全うしなさいと。まさしくこの流れだなと。自分史はその人が自分の役割を見つけるお手伝いなんです。そして自分の果たすべき役割をより具現化したりより大きくして、多くの方の役に立つために必要なのがマーケティングやビジネスなんだな、という捉え方に変わりました。

2019年に再出発して、おかげさまで売上は無事回復、それ以上になりました。役割ってどんな人にもあって、役割に沿って進むべき道に沿っている時って自然と結果が出るんです。逆に役割に沿っていないことをやってしまうと、トラブルに巻き込まれたり、ネガティブなことが起こる。それは結局、道がズレてるから元に戻れよ、というサインだと思うんです。道から微妙に逸れている時って、本人には分からないんですよね。本来の進むべき道に戻される時って、ただ戻してあげるだけじゃつまらないから、いろいろなお土産がくっついてくる。僕の場合は、3,000万円の借金に労使トラブルをくっつけておくから、それを乗り越えて戻って来いよ、みたいに受け止めています。

どのエピソードも僕にとってのターニングポイントです。医療機器メーカーの受注は嬉しかったですし、やはり3,000万円の借金を背負ってしまったことは大きな転機となりました。地域活性化事業の失敗の前の僕を知っている人には、久々に会うと「顔つき変わったよね」とよく言われます。もっと眼光鋭かったよね、とか、やわらかい雰囲気になったな、とか。自分でも全然変わったと思います。 僕が今やってることって、何屋なのかよく分からない感じです。ビジネスの支援もしますし、コーチングや人生相談、人間関係の相談も乗りますし、「ノート3冊分の自分史®」を軸になんでもやります。僕を必要としてくださる方にお仕えします、必要としてくださる方にはしっかりやらせていただきます、という感覚が強いです。欲張ることもなくなって、会社を大きくしないと! とも思わない。会社にも適切なサイズがあって、規模拡大が僕の役割だったら必然的に大きくなっていくでしょうし、あるべきサイズに収まるのだと思います。

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