仕事はマラソンのように
~黒子のように伝えたい、奥深い中国の魅力~
山浦 雅香(やまうら まさか)さん
1985年生まれ、茨城育ち。大学で中国語を専攻、北京に一年留学。
留学の経験を活かすため「私発の中国の情報発信」を軸に就職。新卒採用、出産による退社と専業主婦、復職の期間を経て、中国関連の記事執筆を請け負うフリーランスとなる。その後記事執筆からオウンドメディア編集に携わるようになり、2020年から現職。現在は同社のマーケティング用オウンドメディア運営を手掛けている。 家族は猫と小学生の息子と歳の差婚の夫。好きな飲み物はコーヒーとビール。趣味はバイオリン。おうち時間の増加により食器も増えたとのこと。
一生を生きていけるだけのスキルとお金
学生時代の留学のご経験から、中国に興味を持ち仕事にしたいと考えるようになった山浦さん。中国を軸に就職するも、仕事におけるご自分の在り方と向き合っていくことになります。
学生時代、第二外国語は中国語を選択し、北京への留学も経験しました。書道をやっていた頃、中国の書物をお手本にしたりするので、中国への親近感があったのでしょうね。
あと予想外だと言われるのですが、中国は恐竜の化石がよく出土するんです。ジュラシックパークの映画のように、刷毛で化石をぱさぱさやれたらいいなと思い、安直に中国語を選択しました。語学の担任の先生が効率の良い中国語の習得方法を研究されていた方だったおかげか、日常会話に障りがないくらいには話せるようになりました。
ちょうどその頃、北京への留学生を募集していて、更に私の友達がこだわりを持って北京大学に行きたいと考えている子だったんです。その子に「一緒に行こうよ」と誘われ、大学に学費を納めておけば現地では生活費だけで留学できるプログラムがあることを知り、それなら行ってみようかな、と決心しました。
一年ほど北京で生活してみて、中国人に対して日本人が持っているステレオタイプ的な考え方や、メディアによる発信を通して知ったこととは違うことがたくさんあるなと感じました。日本で暮らしていると、何らかのフィルターを通してしか中国のことを知ることが出来ない人がたくさんいます。それなら私というフィルターを通して中国を知ってもらいたいなと、「私発の中国の情報発信」が新卒の就活のキーワードの一つになりました。
いざ就活では、中国について情報発信をするジャーナリストのイメージで新聞や通信社を受けましたが、全滅してしまいました。国内の一般紙しか受けていなかったので、今思えばもっといろいろ面白い選択肢があったとも思います。どこかしら受かるだろうと思っていたのに全滅だったので、これはやばいなと、エントリー範囲を報道機関以外にも広げました。そうして機械メーカーのK株式会社に内定をいただき、就職しました。
K社は、ケーブルカーやロープウェイといった索道交通を取り扱う会社で、私は営業、事務職のような感じで入社しました。中国で製造している部品がありそれを取り扱う部署への配属ではあったのですが、実際の業務では中国とはあまり関わりがありませんでしたね。開発の人たちはすごく頑張って素晴らしい新製品を開発していると理解すればするほど、私の担当業務とそれに必要とされるスキルは、それに対して私自身が120%頑張れるものではないな、という気持ちがとても強かったです。
転職サイトに登録した日を今でも覚えています、確か書類の整理しか一日やることがなかったんです。朝8時半出社、17時半退勤で、その間ずっと書類を工事番号ごとのフォルダに入れて並べる作業だけ。当初の指針だった中国と関わっていないし、やりがいを感じる仕事でもない。「私の人生なに? ずっと書類整理?」と絶望し、4月入社で12月末付で退社・転職しました。
2社目のメディアレップであるS社は、媒体の広告営業をする会社です。取り扱う媒体は幅広く、雑誌、ウェブサイトのほか、中国や香港、インドなどの新聞やメディア媒体の広告を日本で販売する権利を持っていました。インドの新聞に広告掲載しませんか、と営業するわけです。忙しかったし、中国現地の担当の人とのやりとりを任されていたので、1社目と比べれば「中国関連の仕事をしてる!」感はあったかもしれません。広告関連の中国語を覚えられるのも新鮮で楽しかったですね。
ですが入社して半年で辞めることになりました。規模の小さい会社で、指導してくださる先輩方がいたのですが、その方たちが一斉に退社してしまったことがきっかけです。教えて下さる方がいなくなって、「このままここにいていいのだろうか、一生生きていけるだけのスキルを身に着けることが出来るのだろうか」と疑問に感じてしまいました。1社目は9か月、2社目も半年で退職となると、キャリアパスとしてはあまりよくないコースなのではないかということも悩みましたね。そのことを社内の方に相談したら、コネクションでの求人を紹介してくださり、そちらに転職することとなりました。
3社目はPR代理店のW社でした。複数のブランドとの契約があり、それぞれ担当がいます。私はある高級鍋ブランドのメイン担当の方のアシスタントとして採用されました。1、2社目と比べ、一番実務が見えて面白かったですね。担当の高級鍋をいろいろなところに貸し出すのが主な業務の一つです。料理家の先生に「この鍋お使いになってください」と送ったり、雑誌編集部に撮影した写真が商品の魅力をきちんと伝えられるものであるかを確認したり。料理家の先生がお使いになった後のお鍋を、次の貸し出しに備えて隅々まで磨き上げたり。こうやって鍋の価値は高められていくんだな、なんて思いながら働いていました。広告出稿の仕組みが知れるのはすごく面白かったですね。そのほか地道なPR活動、プレスリリース、お披露目発表会、店舗イベントなどもありました。
2社目を退職する直前に今の夫と入籍していたのですが、入社して数か月、年末の12月ごろに妊娠が発覚しました。会社には年が明けて1月か2月に報告したと記憶しています。6月半ばに産休に入り、復帰も考えていたのですが断念しました。理由は妊娠・出産・育児により、以前に比べ戦力として劣ってしまうと感じていたからです。せっかく入社したのにすぐ妊娠、というのは自分でも非常識だと思っていましたし、上も同じように捉えているのは理解していました。結局復帰しないまま退職ということにしました。
産後の復帰がなくなり、2年ほど専業主婦状態になりました。前の会社ではなくてもどこかに復帰しようとは考えていたのですが、子どもって寝たり食べたり吐いたり排泄したり忙しいですよね。忙しいなと思っていたら、気が付いたら2年経っていました。
専業主婦だというと、人からは「旦那さんが仕事しているからいいじゃん」なんて言われましたけど、自分の収入がないのがすごく不安でした。子どもが成長した今であっても働いている理由はそれです。自分の稼ぎだけで住む場所が確保できて、食事ができて、水道光熱費を払って、という状態じゃないと不安でしょうがないんです。それらを手に入れるための対価が労働だと考えていますから。専業主婦になる前から、それこそ学生の頃からこの考えがあります。それは両親の影響が大きいですね。両親のそれぞれの親がびっくりするようなダメ人間で、父も母もそれは苦労して育ってきたそうです。二人の苦労話を聞かされて、大学の学費は出さない、卒業したら独立、というのを折に触れて言われてきていたので、大学出たらどうにかして生きていかなきゃ、でも都心は家賃が高いどうしよう、などずっと考えていました。水道光熱費や税金など、自分が息をするために必要なお金は全部自分で稼がなきゃいけないんだなと。そういう感覚が実家を出る24歳までに蓄積されてきていたので、専業主婦の頃もよく考えていたんです。
働いていたころも、そのスキルで一生食べていけるかどうかというのをよく考えていましたし、転職の基準にもしていました。 2年経って働こうと決心し、1社だけオンラインでエントリーシートを送ったんですけど、音沙汰なしで落ち込んでいました。2年間何もやっていないし、その前のキャリアも「これができます」と言えるようなものも大してなく、中国語くらい。やばいな、どうしよう、と。そんな時、大学の北京にゆかりのある人限定のOB会があり、よく顔を出していたのですが、そこでよく会う方に「就職したいけどうまくいかないんです」とこぼしたんですね。そうしたらご友人で中国語が分かる人を探しているので引き合わせるよ、と言ってくださって、それがご縁で次の就職となったんです。