僕は僕に自分の家を探してもらいたい

~仕事もキャンプも、メリットよりもベネフィット!~

中島昌勝(なかじま まさかつ)さん

東京都江戸川区在住。マンションデベロッパーとして就職。ほどなくして美容会社の漢方薬局フランチャイズの新規事業立ち上げのためにスカウトされ転職。その後、会社役員と共に独立するが、役員失踪により裁判・脱税の処理に追われる苦境を過ごす。並行して外交福祉に携わる福祉団体に参加、福祉活動に従事。その後友人に請われ物販の会社の社長に就任、半年で赤字経営から6倍の売り上げを作る。更に独立して別会社を設立。父が亡くなったことを機に会社を整理し、実家の不動産業を継承する。 自身の経験を後続に伝えようと、子供向け・大人向けにキャンプ事業を実施。毎年リピーターが出るほど大好評。


若き暴君は、苦境に師を得た

インタビュー中「暴君だったよ」と冗談のように仰っていた中島さん。それはキャリアの中での並々ならぬ苦難に直面した時代のことでした。

新卒ではマンションデベロッパーに就職しました。僕の実家も不動産賃貸業で、子どもの頃からいろいろな大人が家に頻繁に出入りするのを見て不思議に思っていました。当時は家賃を現金で大家さんのところまで持ってくるんですね。成長するにつれ、不動産賃貸をやっているんだ、あの人たちは家賃を支払いに来たんだ、と理解しました。高校在学中と大学卒業前にそれぞれ実家の家業でマンション建築の計画があり、そうしたことも影響して不動産業界を選びました。

マンション販売の営業所に配属され、そこで営業として働いていたのですが、ある日、営業所の真ん中に置いてある社員共用の電話に、僕宛のスカウトの電話がかかってきたんです。相手は学生時代のアルバイト先の会社の専務でした。アルバイトしていた当時の本社の方が部長になられて、不動産に詳しい人物を探しており、僕のことを思い出したという流れでした。それにしたって、「うちの会社に来てくれないか、今から行くから。どこなんだい」なんて、営業所のど真ん中の電話で言われて。勘弁してください、ここは現場ですよと。休みの日になったらお会いしましょうと言って電話を切りました。当然みんな見てますよね。気まずかったですよ! 当時の上司が「今の話なんなんだ、ヘッドハンティングか」なんて言ってきて、関係ないですよ、何なんでしょうね、なんて答えたりしました。

改めてお話を聞いてみると、著名な美容会社で、買収した企業の漢方薬局のフランチャイズを立て直して新しく店舗をたくさん展開するために、不動産に詳しい人材が欲しいとのことでした。新しいことをするなら面白いなと。ちょうどマンションデベロッパーの仕事を辞めたいなと思っていたところだったんです。建物を八百屋で野菜を売るような感覚で売っちゃうんですね、数字の感覚がバカになっちゃうんですよ。取引の数字も大きいですし、歩合で給料も結構ありましたから、暮らし向きが派手になったりとか、ちょっと違うなと思い始めていた頃だったので、スカウトに応じることにしました。

漢方薬局は、薬をいくらで仕入れていくらで売る、というような世界です。僕は薬のこともチェーン店運営のことも全然分かりませんでした。入社して1年間はバーッとがむしゃらにやってみて、なるほどな、と全体像が見えてきました。更にチェーン店運営の知識を得るために、スーパーバイザー学校に入れられたんですね。そこで経営などを学ぶと、自分の部署の業績がみるみる伸びて、給料も上がっていきました。いろいろな人がいろいろな問題を起こしても、物怖じせずに対処できるようになりましたね。不動産の時は、何か問題があるとすぐ裁判になってしまうので、法律の中で生きているような感覚でした。でも普通の市場の中では、人と人が話し合いながら物事を作り上げていくという世界で、最初は異質に思えましたが、一つ一つ対処していくこと、問題を解決するとはこういうことなんだな、と20代後半ごろに実感していました。

30代にさしかかった頃、僕をスカウトした専務さんと一緒に独立し、物販の会社を作りました。当初は専務さんが社長だったのですが、途中でお辞めになってしまいました。だからしょうがなく僕が社長になったのですが、会社はひどい状態で、裁判もありましたし、脱税も見つかったりして、どんどんボロボロになって行きました。裁判に対処して、脱税分もしっかり納税して、そのままうまくフェイドアウトするように会社を終わらせました。この時の精神状態はとても苦しかったです。若い頃でしたし、専務さんのことをものすごく恨みました。30代で血気盛んなので、人に頭なんか下げたくないんですよ。ぶっ飛ばすぞこの野郎、くらいの気概で、暴君のように振舞っていました。裁判と脱税処理のストレスで白髪が増えて、1年で真っ白になってしまったりもしました。重い責任を被りながら課題を一つ一つクリアしていくと、いろいろな感情が走って、いろいろな失敗をしますね。この時に自分の性格の悪いところが全て浮き彫りになったと思います。

そんな苦しい時期、まだ会社を畳み終える前に、ある人とのお引き合わせがありました。それは外交福祉に取り組む団体の会長さんです。日本の外交や政治にも影響力を持つ方なので詳細は差し控えますが、その方の運営する福祉団体のお手伝いもすることになりました。外国の方たちとも協力しながら目的を達成するために活動し、最終的には報道されるような大事業を成し遂げることが出来ました。片方では会社の裁判などの対処、もう片方では福祉団体での活動をしていましたので、もう頭がパンパンでしたよ。会長さんにはいわば帝王学を教えて頂き、他のメンバーの方もすごい方ばかりで、苦しくも学びの日々となりました。よく「命の次に大切なのはお金だよ」と言われましたね。この世の中、お金がすべてではないけれど、寝る場所も食べる場所も、食べ物も水も、下手したら空気も、すべてお金がないと賄えないと。これらがなくなると死んでしまいます。だから命の次に大切なのはお金なんだよと。じゃあそのお金はどこから生まれるんだ、誰が持ってくるんだ、ということを問われるんです。「人でしょう」ということなんですね。ATMから出てくるお札というわけじゃない。人がお金を持ってきてくれるんだろうと。だから、自分の在り方をよく考えなさい、と言われました。外で相変わらず暴君のように振舞うと、会長の耳に入るんです。そうすると、僕が相手の立場になった状況を作らされたりして、解決してごらん、解決できないなら二度とやるな、と言われるんですね。他にもいろいろなやり方でチクリと諭されるので、僕は福祉団体で福祉に取り組むというよりは、鍛えられていた、というような世界でした。

30代は専務さんと立ち上げた会社を畳んで、畳み終わった後はそのまま福祉団体で活動していました。

福祉活動をしながら会社を畳んだ時に被った借金を返し、41の時に友人に会社を紹介されました。最初は売上を上げてくれという依頼でした。赤字の状態からほぼ半年で6倍の売り上げを作ったところ、その会社の社長さんに怖がられてしまい、「怖いから社長を辞めてくれ」と言われてしまったんですね。それを了承すると、今度はこの会社の専務さんが一緒に会社をやろうと言ってくださり、新会社を設立する流れになりました。ですが設立から3か月で赤字が出てしまい、社長となっていた専務さんが困り相談してきました。財務諸表や試算表を見せてもらったところ、経営経験から黒字にさせる方法が分かりましたので、これならできるな、と社長を引き受けました。会長に教えていただいたことを実験してみようという心境でしたね。 41歳で立ち上げた新しい会社は、実家に戻る47歳まで運営していました。今まで学んだことを実践する実験場のような感覚でした。ここまでやってはいけない、あちらはこうしたほうがいい、といった感覚の調整が出来たように思います。そのおかげで、人に対してどこまで何をしたらどうなるのか、というのが完璧に理解できたと思います。

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