人は感情でモノを買う
~「ノート3冊分の自分史®」がつくる、息するだけで契約が取れる仕組みの秘密~
阪井 裕樹(さかいひろき)さん
福島県出身、京都府在住。株式会社Carpe Diem(カルペ・ディエム)代表取締役。大手旅行会社営業、テーマパークのホテルスタッフ、外資系大手の営業、NPO団体広報に務める傍ら、インバウンドマーケティングと出会い、その魅力を伝えるためのブログ・メルマガ・セミナー開催を副業として開始。現在は独立して、確率したメソッド「ノート3冊文の自分史®」を用い、会社員から起業家・経営者までの「価値観」を元にしたキャリアアップ、事業設計・生産性向上・事業戦略の見直し支援を行っている。外資系大手にて営業成績世界2位の実績を基にした著書、「1分で相手の心をつかめ!」は三省堂書店有楽町店ウィークリーランキング1位となった。顔出しNGは副業時代の名残だが、ブランディングのため継続しているとのこと。
数字よりも、心がつながる仕事がしたい
学生時代のバックグランドから詳細に教えてくださった阪井さん。そこには自分史の誕生秘話と、阪井さんの想いや価値観を裏付ける様々な体験がありました。
キャリアスタート以前の、僕の高校時代から話をさせてください。僕、高校で不登校になったんですよ。僕は福島県のいわき市出身で、県内でも有名な進学校の一つに進学しました。一所懸命勉強して合格して、入学後もずっと勉強しかしていなかったです。周りがレベル高い人たちばかりの中、どれだけ勉強しても成績が伸びなくて、高校三年で心が折れてしまいました。僕は覚えていないんですが、母によればある日学校から家に帰ってきたときに「お母さん、山を見に行きたい」と言い、次の日から不登校になったらしいです。毎日夜になったら起きて、自転車を漕いで海岸に行って、月を見て明け方になったら帰ってくる、といういま振り返ると全く意味不明な生活をしていました。単位が足りなくて卒業できないことが分かった時、通信制の高校に転校することにしました。
卒業できなくて通信制の高校にしたのは、逆に良かったなと感じます。通信制の高校には、進学校では絶対で合わないようないろいろな人がいました。70歳くらいのおじいちゃんおばあちゃんが、当時中卒で働かなければいけなかったので高校卒業の資格が欲しいと、自分の息子くらいの先生から英語を教わっていたり。金髪でどうみてもヤンキーな女性が、子連れで授業を受けていたり。スクーリングの体育の授業で「ママ行ってくるねー!」とか言いながら跳び箱を跳ぶんですよ。進学校だと絶対味わえない体験をして、自分は何をやりたいのかを考えるようになり、そこで初めて大学に行きたいなと思ったんです。勉強を始めて志望校を決めるにあたり、自分のやりたいことが全て学べる大学を探しました。京都の独特な時間の流れが好きだったので、場所は京都。同じく好きな仏教について学べて、英語も少人数で学べて、好きな旅行の国家資格を在学中に取得できるところ。いずれ起業したいと考えていたので、経営の勉強もしたい。それらがすべて当てはまるのが龍谷大学でした。龍谷大学は浄土真宗の西本願寺が淵源なので、資金が潤沢です。そのため大学発のベンチャー企業の数が慶応大学よりも多いんです。学生へのサポートが手厚く、チャレンジできる環境が整っていました。
いよいよ就活という時、8月までは好景気で売手市場、どこでも行けるよという雰囲気でした。それが9月にリーマンショックが起きて状況が一気に覆され、そのまま10月から就活開始となりました。みんな焦っている状況で、他の人と同じことをやっていたら内定もらえないなと、自分を振り返るために自分史を書き始めました。結果、志望していた旅行業界の大手4社すべてから内定をいただくことが出来ました。その中でも近畿日本ツーリストを選んで就職しました。当時の同期は10人しかいなくて、僕以外は東大や早慶出身の人ばかりでした。僕だけ龍谷大学だったので、異彩を放つ存在だったと思います。内定をもらえたのは自分史のおかげだなと、自分史が持つ力を実感し始めていました。
近畿ツーリストで営業職となったのですが、全然売れない営業でした。当時の僕の担当は、製薬会社への旅行の提案でした。広告を打つことが出来ない処方箋医薬品は、新薬の認知のために有名ホテルの宴会場を貸切にしたプレゼンテーションを開催します。今では法律が変わり開催が難しくなりましたが、当時のMRはそこにドクターを招待して、美味しいご飯を食べてもらって接待するわけです。その会場や交通の手配をしていました。プレゼンテーションの時期は毎年決まっているので、ある意味ルート営業のような状態なのですが、それでも新規契約をバンバン獲れと予算を持たされ、テレアポをしまくりましたが、全然とれず、出来ない営業マンでした。
ある医療機器メーカーにテレアポが取れたのをきっかけに、ちょくちょく顔を出すようになりました。規模が小さいので売上にはならなかったのですが、この人たちの雰囲気が好きだなと思って、社員の方の個人的な旅行をこまごま受注したりしていました。上司からは売上にならないならもう行くなと言われていたのですが、まあ、サボりも兼ねて顔を出し続けていました。ある日その会社の社長が、「阪井さん、今期予算いくら足りないの?」と聞いてきました。旅行は利益率がおよそ10%で僕が持たされている予算は500万くらい、売上としては5,000万~1億くらいを立てないといけません。それを正直に伝えると、社長は「よし分かった」と言いました。その会社は世界的な医療機器メーカーの日本支社だったのですが、本社があるドイツに日本支社の社員を集めてコンベンションをする、初めてのことだからその手配をしてくれと仰ってくださいました。形ばかりコンペはするけどもう阪井さんに決まっているから、予算が5,000万ならそれを使い切れるように売上を自由に作っていいよ、とのことでした。社員数は多くないので、飛行機は全員往復ともファーストクラスですし、ホテルも良いところ。そのうちお城を貸切にしてパーティーしちゃおうか、とか、あれこれ詰め込んでとても楽しかったです。社長によると「売上にならないと分かると、他の会社はみんな離れていったんだよ。でも阪井さんだけは売上にならなくても通い続けてくれたよね。だから今回は、無競合で阪井さんにお願いしようと決めていたんだよ」とのことで、すごく嬉しかったんです。社内ではビリから数えた方が早かったのが、いきなりトップ営業マンになって、社内誌にも掲載されました。
この医療機器メーカーでの受注は僕の原体験になっています。心と心がつながるというのが、自分の仕事の基準になっている。表面上の売上アップの仕事をやりたくない、どちらかというと感情で動く人間です。その後のキャリアでも営業を経験していますが、数字だけの世界は僕には合わないなと薄々感じていました。数字より、心と心がつながるようなお仕事ができるのがいいなという思いが、後々のノート3冊分の自分史®、インバウンドマーケティングとの出会いにつながっていったと思います。