悩みぬいた書籍出版、そして移住の決心

クレームコンサルタントの第一人者となった山下さん。キャリア面では新規事業と書籍出版とますます活躍される一方、親御様の介護や千葉県への移住の決意など、ライフ面でも大きな変化を迎えていきます。

新事業についてぼんやりと考えていた頃、クレームコンサルティング時に「どうしてクレーム相手にうまく伝えられるんですか」と質問されました。何の気はなしに「人の心の中にあるストーリーを代弁するんだよ」と答えた時、それってプレイバックシアターの即興劇だな、と思い当たりました。人の想いを汲み取り言葉にして伝えること、それがストーリーだとすると、クレームを言ってくる人にその人自身のストーリーをお伝えすることで、怒りが鎮まり納得していただけていたんです。研修などでそう説明すると、今度は「じゃあストーリーって何?」となりますよね。そこで本格的にストーリーを教える決意をしました。クレームとはまた違う事業としてしっかり立ち上げ、誰にでも使えるスキルを作り上げようと意気込んでいました。

ところが、ストーリー事業はクレーム事業ほどはうまくいきませんでした。ストーリーとは、お話を伺ったその場で最大限価値を高めることができる「即興のストーリー」を作ることです。私が作るストーリー自体はご好評頂けるのですが、他の人にスキルを伝えようとしてもうまくいかないんです。私から見ておよそ6割、勘の良い方なら7割くらいまでは習得できるのですが、残りをどうしても伝えられないんです。おそらく私自身も無意識にやってしまっている領域があり、そこをうまく伝えられていないのでしょう。みんな私にはなれないんだ、ということが徐々に分かってきました。ストーリーのスキルを100%伝えることが出来ないので、ストーリーは封印し、事業を縮小していくことにしました。私自身がストーリーを作ることは続けるけれど、人に教えることはしないということです。そうして事業の主軸をクレーム事業に戻していきました。

2016年、チームNO1という勉強会のコミュニティ内コンテストがあり、企画が選ばれるとダイヤモンド社の編集がついて本を出版できる、というものがありました。私はクレームとストーリーの事業で参加し、なんとクレーム事業で1次選考が通りました! 早速ダイヤモンド社の編集さんと面接、過去の実績や誰に向けて書籍を出すのか? などのお話をさせていただき、本を出版することが決まりました。書籍発売に向けて執筆を始めたのですが、途中でたびたび筆が止まってしまいました。クレームって本にするのはすごく難しいんです。事例を出すには当事者の許可が要りますが、担当者はともかく、企業のクレームを事例に出すのは守秘義務があるので許可なんてなかなかとれるものではありません。だから具体的な事例をあまり載せられなかった。またこの本が世の中に出回りすぎてしまうと、世の中のクレーム対応する人たちが「あの本のテクニックを使いやがって!」と相手を逆上させてしまうことを懸念して、こちらもなかなか書くことが出来ませんでした。

せっかくの出版の機会でしたがなかなか筆が進まず、もういいや、仕方ないと思っていたところ、見かねた編集さんが別途ライターさんをつけてくれました。当時2017年頃だったでしょうか。今の時代、クレームに困っている人が多いのですぜひとも出版しましょう、一緒に頑張りましょうと言ってくれたんです。編集さんとライターさんが私のクレームコンサルティングの講座を聴講し、二人三脚での執筆が始まりました。表現が難しいところは私が書くなどして2年かけて執筆し、その後も方向性が紆余曲折するなど1年かかり、2020年7月にようやっと発売することができました。勉強会の仲間は「こんなわがままな作家はいない」と笑っていました。大変ですが、とても楽しい作業でしたね。

実は上京した後、札幌に戻っていた時期がありました。25年前に父が亡くなり一人暮らしだった母が認知症となり、介護の手が必要になったためです。事務所も一度引き払い、二年半ほど札幌で在宅介護をしました。仕事はコンサルティングの継続案件と、札幌で細々としたご依頼を引き受けるのみの状況でした。私が戻るまでは妹は障がい者支援施設に入所していたのですが、実家に呼び戻し、夫と娘は実家の近くの家で暮らしつつ、私、母、妹の三人暮らしとなりました。

母が亡くなり、私と妹の二人になった時、妹にどうしたいか、施設に戻りたいかと尋ねると「お姉ちゃんと一緒に暮らしたい」と答えました。それならばそうしようと、夫の承諾も得て一緒に暮らすのですが、妹が働く先がどこにもありませんでした。通所といって、B型障がい者支援施設に毎日通うのですが、できることがないからと、仕事ではなく塗り絵をして帰ってくるような生活です。ごく僅かな手当てが出るには出るのですが、施設利用料の1/10にもならない金額です。両親から妹の行く末を任されていると責任を感じていた私は、このままでは妹は一人で生きていくことが出来ない、私が先に死んでしまったら彼女はどうなってしまうんだろう、というのがとにかく心配でたまりませんでした。

そんな時、千葉県富津市にある那部さんという方が経営するNPO法人AlonAlonのことを知りました。AlonAlonでは、障がい者が栽培するコチョウランを販売する事業を行っていました。障がい者一人一人の特性やニーズに合わせたケアをしつつ、一人当たりの収入倍増、具体的には100,000円を目指すという活動をされていました。AlonAlonのコンセプトに共感した私はさっそく妹と見学に行き、整った施設と行き届いたケアを目の当たりにして感動しました。妹も気に入ったようで、「ここで働きたい!」と言ったのです。富津市のグループホームは満室で、妹が一人で富津で暮らすことは不可能でした。当時の住居は札幌、AlonAlonは千葉県富津市。夫と娘に相談し、千葉県への移住を決意しました。妹との同居の時といい、夫はこういう時に嫌な顔せず受け入れてくれるのが本当にありがたいです。

家族と妹で千葉県に移住し、妹はAlonAlonへの通所が始まりました。AlonAlonは就労のチャンスもあって、1年後には妹も就職することができました。会社員として給与をもらい、社会保険に加入し、税金を自分で支払えるようになりました。生き生きと働く妹を見て、「私が死んでももう大丈夫、肩の荷が下りた」と思うことができました。両親は亡くなる時までずっと妹の行く末を心配していたので、役目を果たすことが出来たな、と。いつか私が死んだら、両親は私のことを褒めてくれるといいなと思います。

千葉に移住するにあたり、自宅とは別にもう一度事務所を構えようと考えていました。ちょうど娘が米国への留学を考えていたので、彼女の当時の住まいをそのまま引き継いで事務所にしてしまう予定だったのですが、コロナ禍で留学が取りやめとなってしまい、娘は引き続きそこに住むことになりました。なので、北千束に別途物件を借り、今はそこを事務所にしています。

現在は、仕事はかなりセーブしています。クレームコンサルタントという肩書を使うのもやめてしまいました。有難いことに、やめると宣言するとお仕事が増えたのですが。研修や講演依頼はすべてお断りさせていただき、コンサルティングはお断りしても「どうしても」と仰られたところだけ継続しています。やめてしまった理由は、Zoom研修や講演では私が提唱する「終わった後すぐにスキルが使える」状態にまでできていないのではないか、と疑問に感じたからです。また、度々変わるスケジュールに合わせなければいけないことに嫌気がさしてしまったのもあります。それならやめてしまおう、自分で決めた時間に人の役に立つことが出来る仕事にしよう、と思い切りました。

この先は、ストーリーを作って生きていきたいと考えています。ただ、ストーリーを作る対象や、どうやって事業拡大するか、などが定まらず、足踏みしています。何より、依頼があれば誰でも彼でもストーリーを作りたいわけではないんです。「即興のストーリー」の価値が分からない人には作りたくないし、ストーリーの対象となる商品に価値がなければやはり作りたくない。だからストーリー作成のご依頼をいただいても断ってしまうこともしょっちゅうです。ストーリーを作る対象を選ぶので、事業展開が難しいなと感じているところです。

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