渡辺徹さんとの出会い 経営者への憧れ
もっと経営に近づきたいと転職を決意した平井さん。転職先のEQ JAPANで出会った渡辺氏は、その後平井さんのキャリアに大きな影響を及ぼします。
EQとは、ピーター・サロベイ氏が提唱したEmotional Intelligence のことで、日本では「心の知能指数」と呼ばれたりしました。渡辺徹さんが共同創業者と共にアジアでのEQの普及を目指して立ち上げたのがEQ JAPANでした。最初は営業として入社したのですが、上司や同僚が自分より優秀な人だとは思えず、給料も敢えて下げて転職したこともあって、「貴方に私のマネジメントはできないと思うので、自由にやらせてほしい」等と嫌味なことを言っていました。なので管理職陣が私の扱いに困ったようで、結局、渡辺さんが「俺が面倒見る」と彼のかばん持ちのようなポジションを担うようになりました。渡辺さんが抱える案件の提案書を作成したり、商談で資料の内容を説明したり、講演にもアテンドしたりと、いろいろな経験をさせていただきました。当時EQは大変な人気で、六本木のアカデミーヒルズの300人収容のホールで講演をすれば、あっという間に満席になるような状況でした。お会いする商談相手も名だたる企業の上層部の方ばかりで、渡辺さんはそうした方にサラッと1億円の案件を持って行って、決めてしまう。ベースとなる商品があって、それをお金にする力がものすごいなと。もう一人いた経営者の方も、とても雰囲気のいい話し方をされ、案件をまとめてくる。お二人の「やる時はやる」というスタンスがすごいな、と当時は憧れていました。今も自分自身のビジネスのスタイルに彼らの影響を受けているところもあるなと感じます。
その後、EQ JAPANは上場する印刷会社とジョイント・ベンチャーで採用に特化した会社を設立、そこに渡辺さんが経営者として参画し、私も一緒に転籍して手伝うことになりました。受注獲得のためコールドコール(新規電話営業)を実施し、大手の受注をそれなりに獲得していきました。もともと学生時代のアルバイトでコールドコールをしていたので抵抗はありませんでしたが、この時に大手企業の受注がとれていたことは、実績0から1にする営業について自信にもなりました。大手に臆さず電話をかけて受注を獲得するので、ジョイント・ベンチャーを組んだ印刷会社にも驚かれていたようです。この時にお客様のニーズに合わせて適性検査という商品活用を様々な切り口で提案し、受注できたのはよい経験になったと思います。
渡辺さんは、私のキャリアプランについても助言されていました。MBAを取ろうと留学を相談した際には「使われる人間として一流になれるかもしれないが、経営者になろうとするなら経験の方が大事。お前はどっちになりたいんだ?」とアドバイスいただきました。渡辺さんご自身は南カリフォルニア大学のMBAだったと思いますが(笑)。EQ JAPANは当時20人ほどの規模でしたが、「平井にもマネージャー経験を積ませたいが、20人程度の会社でマネージャーになっても、本当の意味でのマネジメント経験は積めない」とよく仰っていましたね。また、コンサルタントではなく、会社内部の人事や採用の経験も積んだ方がいい、とも仰っていました。渡辺さんがそんなに言うならやってみようと思い、またも転職先を検討し、再生ファンドはどうかと目星をつけました。再生ファンドなら、落下傘のように投資先企業の役員に就任して、現場でマネジメント経験を積むことが出来るなと。何社か検討し、金融の出身者以外も積極的に採用している会社と出会い、そちらに転職しました。渡辺さんには「本当に行くのかよ、裏切り者~」とふざけるように言われてしまいましたが、辞めた後もたまに食事などを一緒にさせてもらいました。
再生ファンド(以下S社)ではいくつか案件を担当しましたが、そのうちの一つは事業再生中の河口湖にある某リゾートホテルです。そちらの人事担当役員に就任し、週2日現地に出社していました。今振り返ると、30代の前半で良い経験ができたと感じています。だいたい木曜夜に前日入りし、金土と出社、日曜に帰るというサイクルでしたね。当時の仕事は「日々、よくこうもいろいろな問題が上がってくるなあ」という印象でした。マネージャー陣のいざこざ、社員どうしのトラブルなど、同僚に「ドラマができそうだね」と言われるほど、再生フェーズならではの問題がたくさんありました。前向きな仕事としては、事業再生の一環として新ブランドのホテルを立ち上げるプロジェクトに入った時、日本全国の著名なホテルで活躍している経験豊かなホテルマン、それこそ支配人から若手のスタッフまで20人採用するミッションなどもありました。
プロジェクトの中で、月に何度か新ブランドのホテルを総合プロデュースされている方も交えての関係者ミーティングがあるのですが、そこでそのプロデューサーをカンカンに怒らせてしまったことがありました。私はプロジェクトの途中から参画したので、彼がどんな役割でそこに参加しているのかまだよく分かっていなかったんですね。ただただ「なんでこんな偉そうにしているのだろう」と不思議に思って、彼の発言を引き合いに、茶化すような言い方をしてしまい、結果「お前、表に出ろ!」と激昂させてしまいました。言われた通り本当に退室して、続いて出た彼としばらく睨みあったのは印象深い思い出です。後でS社の役員に「あの人は本当に偉いんだから」と諭されて、思い直し謝罪に伺いました。次の会議では、私の守備範囲について彼から「よくやっている」とコメントをもらい、事なきを得ました。
S社では先述のリゾートホテルの案件の他、子供の知育事業の立ち上げなどにも関わらせていただきました。私のアセスメントや人材開発分野の経験が、マルチプルインテリジェンスと言う8つの知能に基づいた子供の知育の領域にも生かせるのではないか、という目論見からのアサインでした。プロジェクトマネジメントや資金調達、コンテンツ開発などの面で関わらせていただきました。
会社としてS社はイグジット(上場)を目指していましたが、2010年に日本でもIFRS(イファース、国際会計基準のひとつ。上場企業の連結決算開示の指示)が適用されるようになり、以前に比べて上場や投資のための資金調達の難易度が上がってしまいました。そうした背景から、投資先で経営に関与できる機会は少なくなることが想定され、会社側からは「企業向けコンサルティングを積極的に業務としてほしい」と要望があったのですが、自分としては「コンサルティングはたくさんやってきたので、もういいかな」と区切りをつけ、辞退しました。ではなにをやるのかと考えた時、もう少し人事領域の経験や知識を深めたいと思い至りました。ちょうど同じ頃、たまたまS社のプロジェクトで知り合った社長に「上場に向けて人事が出来る人を探している、いい人材はいないか」と相談を受けたので、「それは私が適任じゃないですかね」と自分を売り込み、X社の人材開発室長に就任しました。
X社は上場を目指しているIT関連会社で、上場のためにこれから優秀な人材をたくさん集めようとしている時期でした。私はそこで人材開発室長として、採用や人事制度の策定・運用などを推進していきました。採用では、有名商社やコンサルティング会社などの人気企業に引っ張られるような非常に優秀な学生達をどんどん採用することができました。もちろん新卒だけではなく中途でも即戦力エンジニアを採用していき、入社当初は50人弱だった会社規模が倍を超える体制となるまで、人事として関わることができました。上場を目指すような勢いのある成長企業の人事という立場に立ってみると、成長フェーズの事業会社ならではの、マネジメント面で乗り越えていくべき前向きな課題が多くあり、面白かったですね。「人や組織」への興味は渡辺さんに出会う前、学生時代にラグビーをやっていた頃からずっとありました。
ラグビーは、試合に参加する一人一人は同じような体型やスキル・経験であっても、チームになった時のパフォーマンスや結果はチームごとに変わってきます。そういうのが面白い、チームの醍醐味だなと思っていたので、人事に携わる立場となって、改めて人や組織は面白いな、と実感しました。 X社はとても勢いのある会社でしたが、今度はリーマンショックによる大不況で上場を取りやめることになってしまい、上場前提で採用などの強化を図っていた体制を再度見直していくべきタイミングとなりました。人事だからこそ分かることなんですが、当時、私は非生産部門なのに、実は社員で社内の誰よりも給与が高い状態になってしまっていたんです。これは会社としてよくない、自分自身もここをやめなければ、と思いました。また人事の経験を積むことが出来たので、これからのビジョンやキャリアを改めて考えていた時期だったということもありました。これまでのべ8社も経験していると、またどこかの企業に入社して……というよりは、「そろそろ自分の会社をやってもいいかな」という気持ちが高まりつつあるのを感じました。母の実家で祖父の造り酒屋を見ていたこと、EQ JAPANで渡辺さんを近くで見て、私もそうなりたいと強く思っていたことが、ここにきていよいよ実現することになりました。