パワハラを組織風土づくりのきっかけに
一体感のある組織づくりで個人と企業の成長に貢献する

平井 俊宏(ひらいとしひろ)さん

大手重工メーカーを経て外資系コンサルティングファームへ。その後、人やチームによるパフォーマンスの違いに興味を持ち、EQ(Emotional Intelligence :感情知性)に着目して適性検査開発や研修開発を行うEQ JAPAN社に転職。社長直下で企業向けソリューションの開発や研修会社・コンサルティング会社とのアライアンスを担当。その後、再生フェーズにあるリゾートホテルの人事担当役員や上場準備フェーズにあるIT企業の人事部長、成長フェーズにある複数社の人事顧問など歴任。 2010年に独立し、以降、行動価値検査グローイングの開発・販売に携わる。2017年管理職教育用Web適性検査をリリース。直近では、企業への検査・研修提供の他、検査結果に基づく某スポーツ競技のオリンピックチームコーチ陣へのコーチング等にも携わる。


やりたかったのは、「世の中に貢献できる大きな仕事」だった

「新卒配属1日目にして衝撃的なものを見てしまった」と開口一番語ってくれた平井さん。それはこれからのキャリアについて、平井さんご自身が深く考えるきっかけとなりました。

新卒では大手重工メーカーに入社し、エアコンの事業部に配属されました。正直なところ、ロケットや橋梁など、地図に残ったりニュースになるような大きなプロジェクトに関われそうだとこの会社に入社したのに、エアコンかあ、とがっかりしたのを覚えています。さらに本配属初日の日に衝撃的なシーンを目の当たりにします。私たち新入社員の配属の挨拶と一緒に、定年退職される方のご挨拶もあり、退職される方が金の社章バッヂを貰うセレモニーがありました。その時、部署の皆さんの拍手がまばらで……。「小さなバッチと気のないまばらな拍手……これが40年勤めあげた先の姿なのか」と思ってしまい、ここで一生は働きたくはないな、と思ってしまいました。希望とは違うエアコンの事業なので猶更です。なのでずっと異動希望を出し続けていました。ただ、当時のエアコンの事業部にいた上司、先輩、同僚は、異動希望を出しているからと言って嫌な顔もせず、温かく私を育て、また接してくださり、本当に恵まれていたと思います。後々気付いたことですが、エアコンの事業は規模こそ小さいし、量産品ですが、開発・生産・販売と、事業の上流から下流まで見て、触れて、イメージしやすく、ビジネスという意味ではとても勉強になったなと感じています。

私の上司となったのは厳しいと有名な方(以下Aさん)でした。新卒でAさんの元に配属された若手社員2人が辞めているという話もあり、近くに座っていた年配の社員には配属当初「平井くんはいつまで持つかな?」と茶化されたりもしていました。体も大きく、見た感じも厳しそうな雰囲気の方でしたが、実際、根拠や数字を細かくチェックされていたことを覚えています。その上司に「字が汚い!」とよく指摘されていたのですが、当時の私は何を思ったのか「そこまで言うんだったら」と上司の筆跡を真似し始めたんですね。周囲から「絶対いつか怒られるぞ」と言われていました。真似を始めて数か月した頃、私が手書きして送ったFAXの戻りを上司が見て、「俺はこんなの書いてない……でも俺の字だ……」となり、送信元に私の名前が書いてあったのが見つかってしまいました。案の定今にも怒られそうな雰囲気で呼び出されたので、「Aさんがおっしゃる通り、私は字が汚いので、Aさんの字を手本にしました」と素直に言ったところ、「俺の字は汚い! やめろ!」と言われてしまい、それ以来真似はやめました(笑)。当時「最近の社員はみんな真面目なんだけど、個性がない」と揶揄する人もいましたが、他の上職も同じようなことを言った後、ふと私を見て「あんたは違うけど」と筆跡の真似のことなどを引き合いにして付け足されていました。

3年ほどして、異動の希望が叶い、本社にある、発電所のタービンのスペアパーツを海外向けに輸出営業する部署に配属となりました。本社にフロアがある花形の部署だと聞いていたので、さあ世の中に貢献できる大きい仕事ができるぞとウキウキした気持ちで異動しましたが、いざ配属されると、みんなが何を話しているのかさっぱり分かりませんでした。メンバーはみんな英語、スペイン語などでも会話しているし、普通に中東から電話がかかってくるし、書類に書いてある用語も分からない。それでもついていこうと何とかこなしていましたが、だんだんと自分の仕事へのやりがいも感じられなくなってきました。理由はいくつかあります。数年かけてやっと戦力になる世界で、自分の能力が不足していて、焦り過ぎていたこと。また、配属当初、「営業として世界中を飛び回って、汗を流して契約を取ってくる」というのが私が持っていた異動先のビジネスパーソンの勝手なイメージだったのですが、私が配属になった部署では商社が受注した案件を、日本全国にある事業所に振り分ける仕事が業務の中心だったんですね。みんな自分が取った案件のような顔をしているけれど、実際のところ単なる伝達屋でしかないじゃないか、と思ってしまったこと。提供するものが大き過ぎて、「作って、売る」イメージが湧きづらかったことも理由ですね。今、振り返ると当時の自分には甘さしかないですね。 

不本意なローテーションもありうると考えていたので、エアコンの事業部にいた頃に実は転職活動もしていて、異動の話があったのと同時期に内定もいただいていました。辞令が出て、本社のあの部署に行けるなら、ということで、内定を辞退していたんです。ただ、本社での仕事に疑問も大きくなるにつれて、やはりずっとここにはいられないという想いも強くなり、辞退をしたコンサルティング会社に連絡をとり、転職を決意しました。

転職先にコンサルティング会社を選んだ理由は、子供の頃の生い立ちが関係している気がします。私は母方の実家で育ったのですが、造り酒屋で、私の祖父が自分でお店や工場を経営していました。それをずっと間近で見ていたので、経営に興味を持つのはすごく自然なことだったと思います。本社に異動したものの、そこでの仕事に十分なやりがいを感じられずビジネスの領域を変えたいと思った時、「経営コンサルティングの世界であれば、きっとビジネスの上流から下流まで見渡すことができて、自分の経営に対する好奇心や経営に必要な知識・スキルを身につけられるだろう」と考えたからです。

転職先は外資系コンサルティング会社のA社でした。転職してまず驚いたのは、「こんなに働くのか!」ということです。9時に出社して、資料のドキュメントづくりのために深夜までずっと働いているなんてことがしょっちゅうでした。プロジェクトによっては深夜時間に普通にミーティングも入っていたりします。上司のコミュニケーションも、今の時代から見たらハラスメントと取られかねないようなものもありました。ですがこれはいろいろなビジネススキルを身に着ける修行なんだと割り切っていたこともあり、気にならず、乗り越えていきました。A社には2年ほど在籍しましたが、さらに上流の仕事、より経営に近い、企業の戦略づくりを担うような仕事を求め、日系シンクタンクE社のコンサルティング部門に転職、そちらでもコンサルタントとしていろいろな企業を担当させていただきました。E社の上司は優秀ですが激しい方で、指示が怒声になることもありましたが、人情味もとても感じられる人でした。

特にこの日系シンクタンクE社のコンサル時代は「いま手元にある情報で何が言えるのか?」を常に問われ、徹底的に鍛えられたと感じています。後々、オーナー系の経営者と一緒に働くことが多くなったのですが、彼らはバクッとした言い方でアイディアや構想をお話されるので、それをコンサル時代に培ったスキルですぐに形にして見せて差し上げるととても喜んでくださいました。コンサル時代は仕事量が多く、ついていくのに必死でしたが、その分スキル・知識を得られる実感があり充実していました。コンサル時代に得たものは、この後のキャリアや現在にも生きていると思います。 日系シンクタンクでも2年ほど在籍し、外資系コンサルティング会社と併せて4年ほどのコンサルタント業でした。ただ、経営への興味がますます高まるにつれて、コンサルタントとしての企業とのかかわり方は物足りなくなってきました。コンサルタントはどこまでいっても第三者で、客観的な立場から改善案を提案するまでしか関わらないですからね。本当に経営者に近いところで働いてみたいと思い、次は人事系ベンチャーの株式会社イー・キュー・ジャパン(事業譲渡により現在は消滅)に転職しました。

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