人があって、仕事になる
~めざすのは設計できるまちのお医者さん~
藤野 敬史 さん
一級建築士
まちなか緑化士
被災建物応急危険度判定士
浦和市出身。多摩美術大学を卒業し、高野ランドスケーププランニング(株)、札幌の設計事務所を経て、現在は東京杉並区浜田山にある(有)アトリエハルに所属。
都市計画、公園、大型商業施設、集合住宅、戸建て住宅、と様々な形態の建築設計を経験。ブロック塀を撤去し緑を植え、まちに緑とつながりを生む仕掛けづくりや、空き家をまちで活用するためのプロジェクトの設計者として改築設計と施工監視を行うなど、ジャンルを絞ることなく「まち」に入り、活躍し続けている。
建築士としてのあゆみ
高校生の時に建築の世界に進むことを決め、多摩美術大学に入学された藤野さん。学生時代に始めた都市計画事務所でのアルバイトからキャリアが始まっていきました。
大学に通っていた当時、多摩市永山にあった都市設計工房という都市計画事務所でアルバイトを始めました。たまたま大学の掲示板に貼ってあった募集を見て軽い気持ちで電話してみたんです。都市計画というのは、いわゆる駅前のこの辺を商業とする、とか、この辺を住宅地にするとか、広い範囲での計画ですね。その時は将来都市計画をやろうとはまったく思っていなかったのですが、今思えばこのアルバイトが後を決定づけたと思います。
学生時代はもうずっとこの事務所にいたんですね。なので、ここに就職するのかな、と思っていたのですが、就職の時期になったら当時の所長の娘さんがランドスケープをやっていて、人を探しているということで行ってみないか、と言われました。
その娘さんが所属されている会社が高野ランドスケープでした。静岡県の県営公園でこどもの国というのがあるのですが、当時その方がそこの施工の現場監視をやっていて、人手が足りないからという話だったんですね。それで遊びに行って2週間近く泊まり込みながら作業を手伝いました。
その現場が終わった後に、やはり高野ランドスケープが取り組んでいた京都の公園づくりの現場でワークショップあるからそっちに行ってみたらどうかと言われて、「わかりました」と(笑)。地球デザインスクールというところでした。
結局またそこにひと月くらいいました。もともと京都府立公園で行政が計画を描いていたのですが、バブルがはじけて頓挫して。ならば、手作りで公園を自分たちで作ろうとなって、自力建設でいろんなことにチャレンジしながら、絵を描いてそれを一つずつ作る実験をするというのをやっていました。海の近くだったので貝殻をあつめて貝灰という漆喰を作るのですが、それを作る小屋から手作業で作る、というようなことをやっていました。
その経験がとにかく刺激的で、自力建設をたくさんやっていた高野ランドスケープに、就職したいとお願いして入社することになります。
京都の公園もずっとかかわりがあったし、北海道十勝には3年、気仙沼の公園にも2カ月、他にも札幌など、所属している3年の間に現場はいろいろ経験させてもらいました。
その後20代のうちに建築に一回は戻ろうという気持ちもあって、札幌の設計事務所に1年間所属して、北海道の住宅の考え方を体得した後に、東京に戻ってきました。
戻ってから半年くらいペンキ屋さんをやっていたんですよ。大学の同級生がペンキ屋になっていて、暇なら手伝えと言われて。それも新鮮な経験でしたね。手作業は好きだし、楽しかったです。
そのころ、アトリエハルの一角で高野ランドスケープの仕事をやっていた方がいて、京都の地球デザインスクールでお世話になった方なのですが、その方から手伝わないか、と誘われて。それでアトリエハルに出入りするようになって、手伝いながら今の社長とも知り合って、アトリエハルに入りたいと言って入りました。同じ空間だし、仕事もかかわりがあるのですが、改めてこっちに行きます、と言って。(笑)